今日は老子道徳経から「養身(ようしん)第二」を読んでゆきます。
養身(ようしん)第二のポイントは、
- 世の中の評価は全て相対評価であることを知る
- 聖人とは道と共に歩んでいる人のこと
- 聖人は無為であり、その教えは言葉によらない
- 道は全てを生み出してその功績を誇ったり固執することがない
- 名声が去ることがないのは、功績に固執しないから
です。
なお、「道」については「老子の宇宙論 體道(たいどう)第一」にも出てきましたが、宇宙の根源、宇宙を動かすエネルギーのことになります。

養身(ようしん)第二には「聖人」というワードが登場しますが、これは道の在り方を自分の在り方として生きる人、天に近づこうとして生きている人のことになります。
養身(ようしん)第二
天下(てんか)皆(みな)美(び)の美(び)たるを知(し)る、斯(これ)悪(あく)のみ。皆(みな)善(ぜん)の善(ぜん)たるを知(し)る、斯(これ)不善(ふぜん)のみ。
有無(うむ)相(あい)生(しょう)じ、難易(なんい)相(あい)成(な)し、長短(ちょうたん)相(あい)形(けい)し、高下(こうげ)相(あい)傾(かたむ)け、音声(おんせい)相(あい)和(わ)し、前後(ぜんご)相随(あいしたが)う。
是(ここ)を以(もっ)て聖人(せいじん)無為(むい)の事(こと)に処(お)り、不言(ふげん)の教(おしえ)を行(おこな)う。万物(ばんぶつ)作(おこ)りて辞(じ)せず、生(しょう)じて有(ゆう)せず。為(な)して恃(たの)まず。功(こう)成(な)りて居(お)らず。夫(そ)れ唯(ただ)居(お)らず、是(ここ)を以(もっ)て去(さ)らず。
私の解釈
世の中で、みな美しいものを美しいとして知るのは、醜いものとの対比においてのみだ。善を善と知るのは、善くないこととの対比においてのみだ。
有することがあれば無いということが生じる。難しいことがあるから容易と感じることもある。長いがあるから短いということがあり、高いものと低いものがあるから傾き、異なる音があるから調和があり、前と後ろがあるから順序ができる。
だから聖人は無為自然の立場におり、言葉によらない教えを行う。道は万物を作り出していることをことばにしない。生じさせているけれども、所有はしない。物事をなして見返りを求めない。功績をあげてもそこに居座らない。居座らないからこそ、名声が去ることはない。
まとめ
- 世の中の評価は全て相対評価であることを知る:美しいものは、醜いものとの対比で美しい。善とは善くないこととの対比で善いということで、相対的。
- 聖人とは道と共に歩んでいる人のこと:道のありようを自分のありようとすることが理想であると説いているのが老子道徳経。
- 聖人は無為であり、その教えは言葉によらない:無為とは、自然であること。わざとらしくないこと。「こうしてやろう」という作為のないこと。聖人の教えは言葉ではないから、その有り様が大切。
- 道は全てを生み出してその功績を誇ったり固執したりしない:太陽エネルギーを利用しても電気代や水道代みたいに代償を要求されない。
- 名声が去ることがないのは、そこに固執しないから:名声は、執著することからは得られない。
「無為」の解釈はなかなか難しいですが、何もしない、ということとは違います。
よちよち歩きの赤ちゃんを、何かあったらすぐ助けてあげられるように、でも自分で歩けるように緊張感を持って見守るような感じが無為です。無為は、直接の手出しはしないけど、ものごとの生成化育(せいせいかいく)を促す力で、老子道徳経にたびたび登場しますので、これからもいろいろな角度から考えてゆければと思います。

