論語【八佾第三】52. 礼には心をこめる

この前の章句、その前の章句で孔子先生は、天子のする諦(てい)の祭りについて、見るに堪えない、祭りの意義を知るものは天下にいない、などと嘆いていらっしゃいました。 何が問題だったのでしょうか。 祭るのであれば、そのお祭りの対象となっているご先祖様があたかもそこにいらっしゃるかのように、心をこめてすべきなんだ、自分が祭に参加して自ら誠意を示さないと、祭ったという気がしない、とおっしゃいます。この辺に諦の祭りの問題があったようです。

書き下し文

祭(まつ)るには在(い)ますが如(ごと)くす。神(かみ)を祭(まつ)るには神(かみ)在(い)ますが如(ごと)くす。子(し)曰(いわ)く、吾(われ)祭(まつ)りに与(あずか)らざれば、祭(まつ)らざるが如(ごと)しと。

現代語訳

祭るときには、(その祭りの対象となっている先祖などが)あたかもそこに居るかのように(真心をこめて)する。神を祭るのであれば、あたかも神がそこに居るかのようにする。孔子先生は「自分が祭りに参加して誠意を尽くさないのであれば、祭ったという気がしない」とおっしゃった。

解説

  • この前の章句、その前の章句で天子のする諦(てい)の祭りについて、見るに堪えない、祭りの意義を知るものは天下にいない、などと嘆いていた理由が述べられている。
  • 在(い)ますが如(ごと)くす:祭りの対象である先祖などが、そこにいるかのように真心をこめてする