論語【八佾第三】46. 孔子先生の嘆き

孔子先生の時代への嘆きは止まりません。

先日の章句で、庭で天子しかできないはずの舞いのお祭りをしていた家老の季氏(きし)が、今度は山の神を祭る名山である泰山(たいざん)に旅行しようとしています。

孔子門下には季氏に仕えていた弟子の冉有(ぜんゆう)がいましたから、孔子先生は冉有に、天子が行うべきことを家老がやれば秩序が崩壊するから、あなたが諫言して旅行は止められないのか、と聞くも、冉有はできないと。

孔子先生は、それでは泰山の神は、礼を理解していないと思っているのか。私に礼の根本を問うた弟子の林放(りんぽう)にも及ばないと考えているのか、と嘆かれました。

政治的な状況の中で、礼=社会や組織の秩序を大切にするという孔子先生の志は、なかなか思い通りにならなかったと分かります。

書き下し文

季氏(きし)、泰山(たいざん)に旅(りょ)せんとす。子(し)、冉有(ぜんゆう)に謂(い)いて曰(いわ)く、女(なんじ)救(すく)うこと能(あた)わざるかと。対(こた)えて曰(いわ)く、能(あた)わずと。子(し)曰(いわ)く、嗚呼(ああ)、曾(すなわ)ち泰山(たいざん)を林放(りんぽう)に如(し)かずと謂(おも)えるかと。

現代語訳

魯の家老の季氏(きし)が、山の神を祭る泰山(たいざん)に旅行しようとしていた。孔子先生は、季氏(きし)に仕えていた弟子の冉有(ぜんゆう)に、「あなたがこの状況を救うことはできないのか(天子ではない季氏が山の神を祭ることはふさわしくないので、止められないのか)」と問うた。冉有は「できません」と答えた。孔子先生はこのように言った。「ああ、つまり泰山の神を(礼の根本について私に問うた)弟子の林放にも及ばないと考えているのか。」

解説