
孔子先生は、「自分の先祖でもないのにお祭りするのは、おべっかだ」とおっしゃいます。 どんな意味でしょうか?
孔子先生が生きた古代において、霊験あらたかなのに目がくらんで自分の先祖じゃないけど祭る、という行為は現代でいうと、本来自分でやるべきことはやらずに、例えばSNSでみた流行の情報、お得に思える情報、精神的な安らぎが得られるかもしれない情報に飛びついてしまう感じでしょうか。
「おべっかだ」とおっしゃるニュアンスは、そんな余計なことをするのはやめなさいといういさめです。
それより、「義」=自分の役割を考えなさい、自分が本当にやるべきことが目の前にあるのに、それをやらないのは勇気がないよ、と。
勇気には肉体的な勇気と精神的な勇気の二通りあります。
肉体的な勇気というのが、一般的な勇気のイメージかもしれません。例えばスポーツ選手とか登山家が体力の極限に挑戦するような、身体性を伴う勇気を言います。
精神的な勇気とは、冷静さを保ちきれるかどうかです。
自分の役割、自分が本当にやるべきことに冷静に向き合い、一歩一歩進むことをしないのは勇気がない、とここは孔子先生が強い口調でおっしゃっているように感じます。
書き下し文
子(し)曰(いわ)く、其(そ)の鬼(き)に非(あら)ずして之(これ)を祭(まつ)るは、諂(へつら)うなり。義(ぎ)を見(み)て為(な)さざるは、勇(ゆう)無(な)きなり。
現代語訳
孔子先生はこのようにおっしゃった。自分の先祖の霊ではないのに祭るのは、こびへつらっている。自分が本来しなければならないことが分かっているのにしないのは、勇気がない。
字句の解説
- 鬼(き):先祖の霊。「其(そ)の鬼(き)」は、自分の先祖の霊。
- 諂(へつら)う:こびる、おべっかをいう
- 義(ぎ):自分の役割。自分の本来やるべきこと。
- 勇(ゆう):勇気。勇気には肉体的な勇気と精神的な勇気がある。肉体的な勇気とは、例えばスポーツ選手が体力の極限に挑戦するような。精神的な勇気とは、冷静さを保ちきれるかどうか。人間が人間に対して、冷静さが勝つ。


