老子【歸根第十六】無心で静寂なら命に帰る

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え、老子ってお釈迦様の弟子だった?とこの章句を読んで感じました。

でも老子はお釈迦様がお亡くなりになった約30年後の人であり、当時の仏教はインドの地方宗教であった歴史的事実を考えると、老子はお釈迦様から教えを受けたはずがありません。

老子は、とても不思議な人です。実在したかどうかも分からないと言われていますが、孔子先生やお釈迦様には人間的なエピソードがたくさん残っているのに、老子は神秘的な哲学書「道徳経」しか残っておらず、この人本当に人間だったのか、どういう人だったのかが分からないと感じます。

仏教の修行の方法である瞑想、禅仏教の座禅、マインドフルネス、何と言っても良いですが、心を空に、静かにして真実を見るやり方が老子の言葉で解説されている章句です。

書き下し文

虚(きょ)を致(いた)すこと極(きわ)まり、静(せい)を守(まも)ること篤(あつ)ければ、万物(ばんぶつ)並(なら)び作(おこ)るも、吾(われ)もってその復(かえ)るを観(み)る。それ物(もの)芸芸(うんうん)たるも、おのおのその根(ね)に復帰(ふっき)す。根(ね)に帰(かえ)るを静(せい)といい、これを命(めい)に復(かえ)ると謂(い)う。命(めい)に復(かえ)るを常(じょう)といい、常(じょう)を知(し)るを明(めい)という。常(じょう)を知(し)らずして妄(みだり)に作(な)せば凶(きょう)なり。常(じょう)を知(し)れば容(よう)、容(よう)なればすなわち公(こう)、公(こう)なればすなわち王(おう)、王(おう)なればすなわち天(てん)、天(てん)なればすなわち道(みち)、道(みち)なればすなわち久(ひさ)しく、身(み)を没(ぼっ)するまで殆(あやう)からず。

現代語訳

無心であることに集中し、静寂を守ることを一心にすれば、様々なことが一度に起こっても、私にはそれらが結局どこに帰ってゆくのかが見える。さまざまな物が次々に生じても、それぞれその根本に帰ってゆく。根本に帰ってゆくことを静(せい)といい、これが命に帰ることだ。命に帰ることが恒常の真理であり、それを知ることを明という。真理を知らずにみだりに何かすれば災いである。恒常の真理を知れば寛容になる。寛容であれば公平になる。公平であれば王の徳を得る。王はこの世の天であり、天とは道である。道と共にあればいつまでも、身体が滅びる時まで危うさがない。

解説

  • 虚(きょ):虚は無、つまり作為や思惑を排除した空っぽの心、空の心極まる状態のこと。無の世界は静寂。わさわさしているのは根本ではなく、混沌の世界。徼の世界はわーわーしている。色々なことが起こるけれど、虚で無なら根本に帰ることができる。
  • 篤(あつ)ければ:真心がこもって念入りであれば。
  • 芸芸(うんうん)たる:生い茂る
  • 根(ね):根というのは根本のことで、根本は道。すべて道という根本に帰る。
  • 常(じょう)を知(し)るを明(めい)という:恒常の真理を忘れないことを明という。仏陀は「明」に目覚めているから全てがよく見通せる。これを知らずに欲得で何かしようとしても、道理に反しているから上手くいかない。
  • 常(じょう)を知(し)れば容(よう):常を知れば、絶対的真理にふれているから自信が出て寛容になる。
  • 容(よう)なればすなわち公(こう):寛容になればなるほど公平になる
  • 公(こう)なればすなわち王(おう):公平になると、王の徳を持った状態になる
  • 利益とか売上のような現象の根が道と一体化しているかどうかで、会社が危ういかどうか分かる。一体化していれば、会社や国家も上手く行く。「帰根」には根本を見る。現象を見てもダメ。
  • 絶対自由の境地で愉快に楽しく暮らしたければ、「帰根」。道という母の懐に帰るイメージ。虚とか無は、音も何も無い宇宙の真中に飛び出したイメージ。道と一緒に生きているという実感は必要。ひとりならこういう風に生きてゆけるか?何かに助けられているのでは。